紫パン(80歳代)

中根 等

 

メンバー紹介(by 相羽 東湖)

 

静岡楽惑倶楽部、オーバー60チームに紫パンツ(80歳代)で2名の現役プレイヤーが試合に参加しておられます。お一人は元沼津工業高校監督、知る人ぞ知る岩沢弥之助先生83歳。スクラムハーフのポジションで、今でも小柄の身体がボールに自然に反応します。そのお人柄で先生の周りにはいつも人の輪ができて皆の笑顔が絶えません。

先生の詳しい紹介は次回に譲るとして、今回は50年間の長いラグビーブランクを経て「もう一回ラグビーをやろう」と、79歳にして自ら連絡をとり楽惑倶楽部に入会、大正生まれの御歳85歳、20分ハーフの試合をフル出場して「戦力になれなくて情けない」と普通に言ってのけるスーパーウルトラおじいちゃん。ご本人のお許しを頂きましたので富士市在住でメガネの奥の優しそうな目がキラリと光る中根等氏の、文武両道波乱万丈の経歴をご紹介します。

 

第1章

 大正14年1月15日、東京都中野市に生を受け、尋常小学校卒業後、当時の政府により設立された東京殖民貿易語学校(戦後は文武両道を目指した普通高校に改め、東京保善高校と改名)に入学。中国語専攻、ロシア語も習う。剣道部に入部し最高学年の5年生では二段を取得。主将として活躍しましたが、稽古の合間に道場の外を見ると狭い校庭ではラグビー部員が汗と土にまみれハツラツと練習に励んでおりました。指導者は彼が尊敬する高崎米吉先生(のちに保善高校校長を務めながら全国高校ラグビー連盟の基礎を築き「高校ラグビーの育ての親」とも言われ、数多くの指導者を育て上げた恩師)。道場の窓から練習を垣間見て彼の心にラグビーが浸透していきました。これが中根さんとラグビーとの出会いです。5年生の二学期に大東亜戦争に突入のため繰り上げ卒業となり進学を断念。王子製紙東京本社に入社。これを期して彼には想像もつかない未知の経験が次々と始まる事になります。

 

第2章

 昭和19年3月、彼は人々でごった返す船上の人になっていました。王子製紙に就職して憧れのラグビー部に入部、2年間は毎日練習に励んでおりましたが、戦争が激しくなっているさなか中国は満州の子会社への出向命令です。中国語は自信ありましたが、希望と不安が交差する複雑な思いでありました。戦争は益々逼迫して、その年の11月、彼も当然のように現地で陸軍に入隊、終戦間近の20年8月には幹部候補生試験に合格しました。そして2週間後のその日から想像も付かない運命が始まります・・・。

 その前に、「シベリア抑留とは」 ソ連は終戦直後、条約を破り又ポツダム宣言も無視、満州、朝鮮半島、樺太、千島列島、北海道までも占領すべく、ほとんど無抵抗の軍人や民間人までも踏みにじって、北海道と目と鼻の先の北方4島までも侵攻して来たのです。ソ連軍に侵攻された地域では日本の民間、軍人を問わず百万人超の人々が捕虜として、シベリアに連行され苛烈な強制労働が科され、37万人以上もの人々が死亡しました。(ヨーロッパからもドイツをはじめその他の国から2百万人以上の人が連行された)

 第二次世界大戦では日本人だけでも3百万人以上、全世界では千5百万人、独裁者による自国民虐殺を含めると死亡者は2千万人以上とも言われております。その全ての人にそれぞれの家族があり、普通の生活をして、夢や希望を持って幸せに生きる権利があるはずです。殺戮と破壊、悲しみと絶望の戦争、二度と起こらないことを祈るのみであります。

 8月残暑の日、其の時は突然の部隊移動命令から始まりました。貨車に乗せられ移動、下車後今度は2ヶ月間にも及ぶ徒歩での行軍、(もちろん武器は放棄させられています)再度貨車に乗せられ入ソ、シベリアの山岳地帯を昼夜を問わず何日も何日も歩き続け、初冬とはいえ身も凍る寒さの中、そこには家も無くまずは自分達の作業小屋を建てる事から作業開始、その後は日々伐採土木作業に従事、寒さと飢えで多数の仲間を失いました。

 心身ともに並外れた強さ、冷静な性格、ロシア語が話せたこともあり、中根さんは4年間の厳しかった抑留生活を見事に生き抜き昭和241030日、夢に見た帰国。(シベリア抑留の全ては語り尽くせません、ほんの一部を紹介しました。)

会社に復帰した彼は自由を満喫し、スポーツ万能な彼はラグビー、アイスホッケー、バスケ、野球、テニス、各競技で中心選手として大忙しの活躍が始まりました。

 

第3章

 昭和25年の年明けから出社した中根さん。その当時戦後の混乱は治まりつつあったとはいえ食糧事情や施設の環境も悪く一般の人々はまだまだスポーツを楽しむご時勢ではありませんでしたが会社にもめぐられ、類稀な運動能力を活かして各種競技で人もうらやむ活躍でした。その後本州製紙富士工場に転勤、そこでもラグビー、アイスホッケー、バスケで大活躍、どれも負け知らずの強力チームでした。

 昭和32年、当時トヨタ自動車はラグビーに力を入れ、慶応の森氏をはじめ、明治の今村、真野氏等大学の一流選手を補強して愛知県にトヨタあり、と全国に知れ始めた頃でしたが、全国大会東海地区予選決勝で中根さん率いる静岡県代表と対戦、中根さんが70ヤード独走逆転トライ、大番狂わせで静岡県代表が全国大会出場となったのです。この試合は中根さんにとって永い人生一番の思い出の試合で86歳になった今でも現役でラグビーを続けられるゆえんでもあります。

 正月の全国大会で京都市役所に惨敗した彼は勝ってしまってトヨタに申し訳ないとラグビーを引退、他の競技もそこそこに定年退職まで仕事に精を出しスポーツはテニスやゴルフを楽しむ程度でした、ゴルフの腕前はシングル級だそうです。

 無事定年退職後還暦を迎えた中根さんは子供たちが独立したことを期に、もう一度中国語を勉強しようと中国はハルピンに渡ります、勉強するはずが縁あってハルピン大学医学部の生徒に日本語を教えることになり七年間も日本語教師として教壇に立つことになりました。その後彼の教え子は次々に日本の大学や病院で医学の勉強に励み40名もの医学博士が誕生したそうです。中根さんは中国の医学会の恩人でもあったのです。

 

第4章

 帰国後はテニスやパイプの会等で悠々自適の生活でしたがラグビーを離れて50年余、恩師の高崎米吉先生やあのときのトヨタとの対戦を思い、静岡楽惑クラブ50周年を期にもう一度ラグビーをやろうと決意、79歳で楽惑クラブに入会しました。紫パンツの新人を迎えた楽惑メンバーは、今まで自分たちは年寄りのつもりだったのですが、そのときから全員が若手になってしまい中根さんの若々しいプレーや走力を見て頑張るしかありません。

 その後ねんりんピック大阪大会に出場、鹿児島大会に向けては月二回の練習を開始し中根さんは最高齢者賞を受賞、今年の2010ねんりんピック石川大会では86歳の中根さんを筆頭に22名で参加し、一日目山口県に270、二日目滋賀県に315と二試合とも全員出場しての快勝でした。

 中根さんは相手に激しく倒されながらもボールはパスしてトライに貢献、86歳の活躍が光りました。寄せ集めだったチームが夏以後デフェンスを重視し戦法戦略を考え試合で少しづつ実践できるようになると、選手がチームを思いチームワークというものが出来てまいりました。全国から参加の24チーム中試合内容や総合力で印象に残る優秀4チームに楽惑クラブが推薦され我々はこのチームを誇りに思っております。年に89試合の定期戦を楽しみ、月二回の練習では赤パンも黄パンも紫パンツも皆青年のように目が輝いています。中根等さんにはゴールデンパンツでグランドに立っていただける日を楽惑クラブ全員で楽しみにしております。完)